■はじめに
57年卒の手塚です。松本君からの想定外のフリがありました。
2/1から福島に単身赴任することになりました。50歳になり、はじめて、首都圏を離れます。食生活が乱れる懸念がある一方、ストイックな生活で体を鍛えマスターズでみんなをアッと言わせるのも良いかも。
ただし、昨年末から赴任の準備に追われ運動する暇がなかったのがまずい。昨年、一昨年と1月は毎週自主トレしてきたのに。さらに毎年30試合近くソフトや野球してたのに試合数激減の可能性もある。
地元秦野市のソフトボールチームには年末にFA宣言し、福島市内のチームにオファーを出している。毎週練習や試合があり、プレーヤーとして使ってくれるところはないかな。
会社野球部やマスターズの練習・試合に出たいが毎回参加は少し難しいかも。
■私の野球半生
記憶のあるうちに書いておく。思い出すまま気の向くまま、ご容赦を!
●小学生時代
子供の頃身近にリトルリーグがあれば入っていただろうが、あいにくまわりの友達が入ってる話を聞いたことがなかった。
初めて買ってもらったユニフォームは縦縞、つけてもらった番号は22番、黒い帽子に白いフェルトでH&Tを重ねて貼り付けた。チームユニフォームではなくプライベートユニフォーム。社宅に住んでいた杉本君達と毎日野球に興じていた。滞空時間の長いきれいな放物線を描くホームランに憧れて。
小学校の部活動は卒業アルバムには野球クラブとあるがソフトボールをしていた。当時の校庭は舗装されてたので近くの深川公園まで行き紅白戦をよくやった。スラッガーの竹内君にはかなわなかった。
小学5年生の秋の夕暮れ時、長嶋の引退試合を自宅四畳半の部屋でおふくろと一緒にTV見ていたのを今でもよく覚えている。おふくろがそばにいるのも構わず男(の子)泣きしながら引退セレモニーを見ていた。
当時の後楽園球場は屋根はなかった。オヤジの会社に年間予約シートがあり、よく連れて行ってもらった。自分は木場から東西線、丸の内線を乗り継いで後楽園で降り、ゲート前で会社帰りのオヤジと落ち合う。ネット裏の結構いい席で、ジャイアンツ戦やロッテのダブルヘッダーを見に行ったのを思い出す。当時は金田正一監督のもと木樽や金田っていうピッチャーがいて優勝争いしていた。コーチャーズボックスでの金田監督のパフォーマンスが人気があった。
当時は王貞治も全盛期。後楽園球場のライト側ジャンボスタンドにホームランボールを取りに行こうぜって中村君(水泳部)、角頼君(カクライ:ジーンズ屋の息子)と三人でグローブを持って通った。入場料は600円位、開場と同時にダッシュで階段を駆け上りライトポール脇を陣取ったが取れるそうな打球は一度もなかったような気がする。
実家には当時つけていたスコアブックがある。高校野球やオヤジと行ったプロ野球をつけていた。夏の甲子園のスコアには篠塚、土屋の銚子商業、作新学院の江川の名前がある。夏休みの朝から、おふくろに怒られながら、TV観戦しながらつけていた。
(引っ越しのため中断、落ち着いたら再開)
以下は予定
●中学時代
●高校野球
●大学野球
●会社
■マスターズ予選に勝つには
・若手ピッチャー補強
・時間に限りがある試合なので…
■おわりに
57年卒の手塚です。松本君からの想定外のフリがありました。
2/1から福島に単身赴任することになりました。50歳になり、はじめて、首都圏を離れます。食生活が乱れる懸念がある一方、ストイックな生活で体を鍛えマスターズでみんなをアッと言わせるのも良いかも。
ただし、昨年末から赴任の準備に追われ運動する暇がなかったのがまずい。昨年、一昨年と1月は毎週自主トレしてきたのに。さらに毎年30試合近くソフトや野球してたのに試合数激減の可能性もある。
地元秦野市のソフトボールチームには年末にFA宣言し、福島市内のチームにオファーを出している。毎週練習や試合があり、プレーヤーとして使ってくれるところはないかな。
会社野球部やマスターズの練習・試合に出たいが毎回参加は少し難しいかも。
■私の野球半生
記憶のあるうちに書いておく。思い出すまま気の向くまま、ご容赦を!
●小学生時代
子供の頃身近にリトルリーグがあれば入っていただろうが、あいにくまわりの友達が入ってる話を聞いたことがなかった。
初めて買ってもらったユニフォームは縦縞、つけてもらった番号は22番、黒い帽子に白いフェルトでH&Tを重ねて貼り付けた。チームユニフォームではなくプライベートユニフォーム。社宅に住んでいた杉本君達と毎日野球に興じていた。滞空時間の長いきれいな放物線を描くホームランに憧れて。
小学校の部活動は卒業アルバムには野球クラブとあるがソフトボールをしていた。当時の校庭は舗装されてたので近くの深川公園まで行き紅白戦をよくやった。スラッガーの竹内君にはかなわなかった。
小学5年生の秋の夕暮れ時、長嶋の引退試合を自宅四畳半の部屋でおふくろと一緒にTV見ていたのを今でもよく覚えている。おふくろがそばにいるのも構わず男(の子)泣きしながら引退セレモニーを見ていた。
当時の後楽園球場は屋根はなかった。オヤジの会社に年間予約シートがあり、よく連れて行ってもらった。自分は木場から東西線、丸の内線を乗り継いで後楽園で降り、ゲート前で会社帰りのオヤジと落ち合う。ネット裏の結構いい席で、ジャイアンツ戦やロッテのダブルヘッダーを見に行ったのを思い出す。当時は金田正一監督のもと木樽や金田っていうピッチャーがいて優勝争いしていた。コーチャーズボックスでの金田監督のパフォーマンスが人気があった。
当時は王貞治も全盛期。後楽園球場のライト側ジャンボスタンドにホームランボールを取りに行こうぜって中村君(水泳部)、角頼君(カクライ:ジーンズ屋の息子)と三人でグローブを持って通った。入場料は600円位、開場と同時にダッシュで階段を駆け上りライトポール脇を陣取ったが取れるそうな打球は一度もなかったような気がする。
実家には当時つけていたスコアブックがある。高校野球やオヤジと行ったプロ野球をつけていた。夏の甲子園のスコアには篠塚、土屋の銚子商業、作新学院の江川の名前がある。夏休みの朝から、おふくろに怒られながら、TV観戦しながらつけていた。
(引っ越しのため中断、落ち着いたら再開)
以下は予定
●中学時代
●高校野球
●大学野球
●会社
■マスターズ予選に勝つには
・若手ピッチャー補強
・時間に限りがある試合なので…
■おわりに