■はじめに
昭和57年卒の手塚です。岩本の無茶ぶりに、誰かがカブせてくるんじゃないかと冷や冷やしていたら、大澤のフォローがあってホッとしていました。が、まんざらでもないので、今書いちゃえっ! と思ったので書き出します。2015年9月2日20:20。
色々あって脱稿が遅れてしまいました。2015年11月19日20:20。悪しからず。
■私の野球半生パート3
記憶のあるうちに書いておく。思い出すまま気の向くまま、ご容赦を!
●高校時代
入学試験会場は三鷹高校だった。確か、みぞれ交じりの日にバスに揺られて行って、随分と不便な所だと思った。試験以外で映像として強烈に焼き付いているのは、僕が1番前の右端、教室の入口すぐの席だったこと。それと1番前の左端、窓際に座って試験前だというのにマンガを読んで余裕こいているやつがいたことだ。この後にも、先にも行ったことはないが、この時が三鷹高校とマンガ野郎との因縁の始まりだった。
昭和57年卒の手塚です。岩本の無茶ぶりに、誰かがカブせてくるんじゃないかと冷や冷やしていたら、大澤のフォローがあってホッとしていました。が、まんざらでもないので、今書いちゃえっ! と思ったので書き出します。2015年9月2日20:20。
色々あって脱稿が遅れてしまいました。2015年11月19日20:20。悪しからず。
■私の野球半生パート3
記憶のあるうちに書いておく。思い出すまま気の向くまま、ご容赦を!
●高校時代
入学試験会場は三鷹高校だった。確か、みぞれ交じりの日にバスに揺られて行って、随分と不便な所だと思った。試験以外で映像として強烈に焼き付いているのは、僕が1番前の右端、教室の入口すぐの席だったこと。それと1番前の左端、窓際に座って試験前だというのにマンガを読んで余裕こいているやつがいたことだ。この後にも、先にも行ったことはないが、この時が三鷹高校とマンガ野郎との因縁の始まりだった。
小金井南中から74群に合格したのは8名、そのうち7名が三鷹高校へ、残り1名の僕だけが武蔵高校へ。知っている仲間が1人も居ない寂しい入学式を終えて、1年D組になった。出席番号は14番目くらいで、1つ前が東村山出身の「土田(つちだ)」だった。なんと、三鷹高校の試験会場でマンガを読んでいたやつだった。
新入生歓迎の日、脇目も振らずに硬式野球部に入部するつもりだった。5分刈りの厳つい日焼けした先輩がいて、野球部の人に違いないと思って、『入部します!』と言ったらラグビー部の方だった。おっちょこちょい、早合点というか、昔からこういうのが多い。改めて、野球部の門を叩いたら、やつがいた。何の申し合わせもしていなかったのに・・・。
◆1年の夏まで:しいていえばブルペンキャッチャー時代
新入部員恒例の小金井公園のしごきに1年D組の2人は淘汰されなかった。生き残ったメンバーは岡野、中川、才木、佐藤の合計6人だった。この時点で、まだ、榎本キャプテンは入部していない。親父にねだって28,000円のミズノのグローブとヤバネのスパイクを買ってもらったが、活躍する場面は全くと言ってなかった。春の都大会でベスト16まで勝ち上がった先輩達が居られて、フリーバッティングをやらせてもらったのはほんの数回くらい。あとは球拾いか、ブルペンで3年生投手の市川さん、2年の木村さんの球を受けていた。僕は練習試合に出たこともなかった。
◆2年の夏まで:来る日も来る日もバッティングピッチャー時代
3年の先輩が夏の予選で敗退し、引退された翌日から、長野県富士見高原での夏合宿に向けたトレーニングが始まった。特にキャッチボール、ベーラン100塁打(25周)、ベーラン競争&罰ゲームが半端なくきつかった。スポーツドリンクなど飲む習慣などなく、ひたすらの“ど根性練習”で、『トイレ行ってくる』と言っては水をガブガブ飲んでいた。今のように暑くなく、熱中症なんて言葉もなかった。夏合宿の初日、最後のベーランでダウンして木陰で横になり、先輩マネージャーに介抱してもらった甘~い?! 記憶が1度だけある。1年上の先輩達は20名弱、兵ぞろいだった。何を隠そう、2年の夏の大会が終わるまで練習試合に出られなかった。同期メンバーで試合に出たことがなかったのはたぶん僕だけじゃないかな。単純にへただったからかも。でも、めげずに、来る日も来る日もバッティングピッチャーをやっていた。もともと肩とリストは強くて、コントロールもスピードもそこそこあり、先輩達にとってはいい練習台であったはずだ。打たせてなるものかと力でねじ伏せることばかり考えていた。この1年間の経験が大学時代に生かされることになる。
◆3年の夏まで:肩と足と声には自信のあったライトで9番時代
2年の夏休み以降、ようやく練習や試合で主役になることができた。ライトで9番はほぼ固定。監督は武蔵OBで現役の電気通信大学の学生、豊国監督。僕の打席ではヒットエンドランのサインを多用され、意外とその期待にそったバッティングが出来ていたと思う。4番キャッチャーの榎本キャプテンに次いでポイントゲッターだった。秋の大会、府中球場、東工大附属高戦の決勝打、右中間3塁打もヒットエンドランだった。送りバントや盗塁も多かったような気がする。
夏の大会直前、背走して捕球する外野守備練習をしていた時に、僕の人生を左右する事件が起こった。ギックリ腰である。背筋にビリビリって電気が走り動けなくなり、その日どのように帰宅したか忘れたが、数日の間は寝返りを打てないくらい重症だった。1回戦の都立杉並高校戦になんとか間に合えばと思い、岡野かだれかに紹介してもらった吉祥寺の針灸治療の先生の腕に賭けた。1回戦スタメンに名を連ねることが出来なかったが、勝利がほぼ確定した終盤に代打で打席にたつことができた。そこでライトオーバーのあわやホームランという大飛球を放ち3塁まで走ったところで、また、グロッキーに。観客席からは悲鳴があがったとか・・・。2回戦の実践商業戦に向けて治療が続くことになるが、針灸の先生が3塁打を打ったことを新聞で見ていてくれて、『大会終わるまで治療費をタダにしてやる!』と。置き針やマッサージを入念にしてもらっていたから毎日3,000円位かかっていて、いや嬉しかった、本当に助かった。
実践商業戦、5対2で勝った時のみんなの喜びようは最高潮だったね。ヒット数は両チーム9本、失策は武蔵0対実践3、三振数は武蔵8対実践4、四死球数は武蔵2対実践2。四死球を2個しか与えなかったことと、実践商の大飛球を外野手3人がことごとく好捕した執念が勝因だった(榎本キャプテン談)。
2回戦で全精力を使い果たしたわけではなかったが、3回戦の対三鷹戦、都立高校の同学校群、74群対決が皮肉にも我々7人の侍の最後の戦いとなった。『実践商に勝てば次の相手は三鷹、4回戦に進出できる!』との慢心も少なからずあった。四死球が三鷹12対武蔵2で自滅するいつもの悪い負けパターンであった。詳細は新聞記事に譲ろう。今度やる野球ではピッチャーを絶対にやろうと思ったのはこの時だった。
新入生歓迎の日、脇目も振らずに硬式野球部に入部するつもりだった。5分刈りの厳つい日焼けした先輩がいて、野球部の人に違いないと思って、『入部します!』と言ったらラグビー部の方だった。おっちょこちょい、早合点というか、昔からこういうのが多い。改めて、野球部の門を叩いたら、やつがいた。何の申し合わせもしていなかったのに・・・。
◆1年の夏まで:しいていえばブルペンキャッチャー時代
新入部員恒例の小金井公園のしごきに1年D組の2人は淘汰されなかった。生き残ったメンバーは岡野、中川、才木、佐藤の合計6人だった。この時点で、まだ、榎本キャプテンは入部していない。親父にねだって28,000円のミズノのグローブとヤバネのスパイクを買ってもらったが、活躍する場面は全くと言ってなかった。春の都大会でベスト16まで勝ち上がった先輩達が居られて、フリーバッティングをやらせてもらったのはほんの数回くらい。あとは球拾いか、ブルペンで3年生投手の市川さん、2年の木村さんの球を受けていた。僕は練習試合に出たこともなかった。
◆2年の夏まで:来る日も来る日もバッティングピッチャー時代
3年の先輩が夏の予選で敗退し、引退された翌日から、長野県富士見高原での夏合宿に向けたトレーニングが始まった。特にキャッチボール、ベーラン100塁打(25周)、ベーラン競争&罰ゲームが半端なくきつかった。スポーツドリンクなど飲む習慣などなく、ひたすらの“ど根性練習”で、『トイレ行ってくる』と言っては水をガブガブ飲んでいた。今のように暑くなく、熱中症なんて言葉もなかった。夏合宿の初日、最後のベーランでダウンして木陰で横になり、先輩マネージャーに介抱してもらった甘~い?! 記憶が1度だけある。1年上の先輩達は20名弱、兵ぞろいだった。何を隠そう、2年の夏の大会が終わるまで練習試合に出られなかった。同期メンバーで試合に出たことがなかったのはたぶん僕だけじゃないかな。単純にへただったからかも。でも、めげずに、来る日も来る日もバッティングピッチャーをやっていた。もともと肩とリストは強くて、コントロールもスピードもそこそこあり、先輩達にとってはいい練習台であったはずだ。打たせてなるものかと力でねじ伏せることばかり考えていた。この1年間の経験が大学時代に生かされることになる。
◆3年の夏まで:肩と足と声には自信のあったライトで9番時代
2年の夏休み以降、ようやく練習や試合で主役になることができた。ライトで9番はほぼ固定。監督は武蔵OBで現役の電気通信大学の学生、豊国監督。僕の打席ではヒットエンドランのサインを多用され、意外とその期待にそったバッティングが出来ていたと思う。4番キャッチャーの榎本キャプテンに次いでポイントゲッターだった。秋の大会、府中球場、東工大附属高戦の決勝打、右中間3塁打もヒットエンドランだった。送りバントや盗塁も多かったような気がする。
夏の大会直前、背走して捕球する外野守備練習をしていた時に、僕の人生を左右する事件が起こった。ギックリ腰である。背筋にビリビリって電気が走り動けなくなり、その日どのように帰宅したか忘れたが、数日の間は寝返りを打てないくらい重症だった。1回戦の都立杉並高校戦になんとか間に合えばと思い、岡野かだれかに紹介してもらった吉祥寺の針灸治療の先生の腕に賭けた。1回戦スタメンに名を連ねることが出来なかったが、勝利がほぼ確定した終盤に代打で打席にたつことができた。そこでライトオーバーのあわやホームランという大飛球を放ち3塁まで走ったところで、また、グロッキーに。観客席からは悲鳴があがったとか・・・。2回戦の実践商業戦に向けて治療が続くことになるが、針灸の先生が3塁打を打ったことを新聞で見ていてくれて、『大会終わるまで治療費をタダにしてやる!』と。置き針やマッサージを入念にしてもらっていたから毎日3,000円位かかっていて、いや嬉しかった、本当に助かった。
実践商業戦、5対2で勝った時のみんなの喜びようは最高潮だったね。ヒット数は両チーム9本、失策は武蔵0対実践3、三振数は武蔵8対実践4、四死球数は武蔵2対実践2。四死球を2個しか与えなかったことと、実践商の大飛球を外野手3人がことごとく好捕した執念が勝因だった(榎本キャプテン談)。
2回戦で全精力を使い果たしたわけではなかったが、3回戦の対三鷹戦、都立高校の同学校群、74群対決が皮肉にも我々7人の侍の最後の戦いとなった。『実践商に勝てば次の相手は三鷹、4回戦に進出できる!』との慢心も少なからずあった。四死球が三鷹12対武蔵2で自滅するいつもの悪い負けパターンであった。詳細は新聞記事に譲ろう。今度やる野球ではピッチャーを絶対にやろうと思ったのはこの時だった。
さいごに卒業記念アルバムの写真。3年間7人の侍とともに甲子園を目指した同志、マネージャー2名を紹介する。向田さんと坪根さんだ。晴れの日も、雨の日も、風で砂塵の日も、真夏の合宿も、厳寒期の練習も、練習試合の段取りからスコアブック付けまで、改めて、本当にありがとうございました。当時の大会ではベンチに女子マネージャーは入れなかったけど、まだ、諦めてないよ! 甲子園へ! マスターズのみんなで連れてくよ!
●次は大学時代編 左肩腱板断裂の縫合手術(11/30入院、12/1手術)をした後にでも・・・
今回もおもしろかったです。しかし、ベーラン100塁打はたまりませんね、、、針灸の先生が治療費をタダにしてくれたのはええ話ですね!私も高校時代、整骨院で同じような先生がいました。
次の大学時代編が楽しみで今から待ちきれません!
過去のリレーブログ一覧はこちらです。
マスターズ都立武蔵では参加者を常時募集中です!都立武蔵野球部OBの方で、マスターズ活動にご興味のある方はぜひ一度練習や試合等にお越しください。スケジュールはこのホームページやFacebookページ、メーリングリスト等で告知しています。
(広報担当:大澤)
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マスターズ都立武蔵では参加者を常時募集中です!都立武蔵野球部OBの方で、マスターズ活動にご興味のある方はぜひ一度練習や試合等にお越しください。スケジュールはこのホームページやFacebookページ、メーリングリスト等で告知しています。
(広報担当:大澤)